80回目の終戦記念日
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
夏休みも終盤にさしかかってきました。
今日は80回目の終戦記念日です。
第二次世界大戦では、ヨーロッパの都市はがれきの山になりました。
日本でも各都市が空襲に遭い、核兵器が人類史上初めて使用されました。
太古から戦争は、悲惨さや残酷さという側面をもっているものでした。
(人間はいかに残酷なことをしてきた生き物だったのかということは、歴史的な事実を調べればすぐに分かります。)
それでも、このような悲惨な状況を生み出さないように、戦争や武力衝突をなるべく回避するように国際社会は努力してきたはずなのですが、この80年の間にも数え切れない戦争や武力衝突が発生しているのが現実です。
近年では、核兵器をもつ国が武力をもって国境線を変更しようとするという、80年前と変わらない行動を起こしている現状があります。
世界平和を達成することは、いかに難しいことなのかということを改めて考えさせられます。
先日、3年の学年便りに「【平和や民主主義が目指される中、なぜ、第二次世界大戦が起きたのだろうか】という学習を通して…」というある生徒の振り返りが載っていました。ご紹介します。
第二次世界大戦の開戦の原因は、ドイツのポーランド侵攻と言われる。この状況だけをみると、他国を侵攻しようとしたドイツのみが悪いように見えてしまう。だが本当にそれだけであろうか。
植民地を利用し、世界恐慌を乗り切ったイギリスやフランスは“持てる国”と言われ、反対に資源や領土を持たないドイツやイタリア、日本を“持たざる国”と表現することがある。第二次世界大戦は、この“持てる国”と“持たざる国”の対立と言える。
世界恐慌という危機に直面した時、“持たざる国”であるドイツやイタリア、日本は、領土を拡大しようとした。確かに国際的な条約を破り、平和を脅かしたこの行為は当然いけないことである。しかし、“持たざる国”に、他に為す術すべがあっただろうか。広い領土を持たないこれら三国が、“公共事業”の拡大のみで、経済を回復させることはできなかった。だからこそそんな時、世界に必要だったのは、“持たざる国”の武力行使による解決ではなく、“持てる国”からの協力だったのではないだろうか。
それぞれの国に、それぞれの国の事情があり、共に助け合うことはとても難しいことだ。どの国も不況に苦しんでいた当時の状況ならばなおさらであろう。しかし、ほんの少しでも協力し合い、共に平和に向かうことができていれば、この悲惨な大戦を防ぐことができたのではないであろうか。(この2つの世界大戦の学習を通して、)「もう過去に戻ることも失ったものも取り戻すことができないからこそ、今を生きる私たちが協力し合える世界をつくり、平和を守っていきたい」と考えた。
「平和」とはどういうものなのか、なぜ私たちはいま平穏な暮らしが出来ているのか、世界の平和を実現していくためには何が必要なのか、様々な側面から考えていってほしいと思います。
ドイツの哲学者カントは今から200年以上前に「永遠平和のために」という本の中で、世界が理想的な国家としてあるべき姿や国際秩序のあり方などについて論考しています。カントは平和を人類が達成すべき道徳的義務と捉えています。そのためには人類が道徳的な成長が不可欠であると論じられています。
果たして、この200年で私たち人類は道徳的に成長できているのでしょうか。
複雑化する世の中だからこそ、しっかりと「平和」について深く考えていく1日にしてほしいと願っています。